反省と後悔

 

人は、
過去を躊躇することなく、
断罪しがちです。

「ったく、もっと勉強してればなぁ……。
 文系に進学したのが間違いだったんだ。
 
 それに、テニス、テニスだよ。
 いいとこだったのに、断念したのは惜しかったな。
 あのままやってれば、錦織こえたんじゃね?

 コーチから「君、才能あるぞ」って言われてたしなぁ
 ああぁ、バカだったな」

 

 果たして、そうでしょうか。

 本当に、過去のご自身は、
 バカで間抜けだったのでしょうか?

 

 私には、そうは思えません。

 むしろ、よくぞ「生き抜いてくれた」
 
 「五体満足なまま、この身を永らえてくれた」と、

 感謝しこそすれ、断罪することなど考えもしません。

 

「でもさ、文系だとさ、
 手に職がないって言うか、
 潰しが効かないし、
 今の会社が倒産なんかしたら、
 どうしようもないでしょ。

 せめて、理系だったらなって、
 思うのはいけないの?」
 
  

 では、高校の数1や数2B、
 そして物理や化学は得意だったでしょうか?

 

「いやいや、生理的に嫌いっていうか、
 数学って、答えが一つでしょ。

 なんか、型に嵌められるようでね、
 あんまり意欲は湧かなかったな」

 

 その状態で、理系に進んだとして、どうなったでしょう。

 人には得手不得手があるのは当たり前のことです。

 全てがオールマイティな人はいない。

 そして、すべてに力を発揮できる能力を
 兼ね備えた人がいたとしても、
 どこかで、専門職を選択しなければなりません。

  

 なぜなら、
 1日は24時間しかなく、
 身体は一つだからです。

 

 極端な話、

 ○上場企業のCEOであり、

 ○ウィンブルドンのシード選手であり、

 ○その上日本国総理大臣であり、

 ○囲碁と将棋とチェスのチャンピオンであり、

 ○ノーベル賞を受賞し、

 ○オスカーの主演男優賞を獲得し、

 ○直木賞から芥川賞など文学賞を総なめし、

 ○紅白歌合戦のおおとりを務める……。

 以上の偉業を同時にできる人など、存在しません。

 そもそも、物理的に不可能です。

 

 確かに、才能溢れる人物は
 上記に上げた輝かしい栄光のどれかを、
 手にすることもできるでしょう。

 

 しかしながら、
 いつの日かいずれかに集中しなければ、なりません。

 

 なぜなら、

 そうした栄光に向けて努力する方々は数多く、
 抜きんでるには、

 卓越した才能もさることながら、
 多くの修練が必要だからです。

 

「なるほどね、言うことは分かるよ。

 でもね、後になって、
 あの時、歯を食いしばってやってれば、
 今、どうなってだろうって、
 考えるのはいけないことかな。

 だって、中学で県大会まで行って、
 高校でもいいとこ行ってたんだ。

 もし、高校2年で辞めずに、
 あのまま続けてれば、プロ?

 って、考えてしまう。だめかな……」

 

 決断したのです。

 高校2年の
 あなたご自身が、悩み、苦しみ、決断したのです。

 その上で、今のあなたがいる。

 そこを否定する行為は、
 あなたの未来をも否定することになりかねない。

 

 なぜなら、現時点で下す決断も

 ”未来のあなたに否定される可能性”

 を内包しているからです。
 

 

「高校2年の悩みか……。

 彼女ができたけど、クラブがきつくて、
 勉強についていけなくて、
 塾に行っても眠気が襲ってきた。

 安易だった。

 もっと、
やれたはずだったのに、やらなかった」

 

 確かに、
 現在のあなたであれば、十二分に対処できる。

 ただ、それは、
 高校2年の経験も踏まえた上でのこと。

 すべての経験を糧にして、
 成長したからこそ、言えるのです。

 高校2年生のあなたも、
 迷い・悩み・もがき・苦しみ抜いて、
 一つの方向性を選択した。

 そうは、思えないでしょうか?

 

 「と、言うことはさ、
  過去は全部肯定しろってこと?

  ダメなことも、
  いやいや、犯罪を犯したとしても、
  それも否定しちゃいけないってこと?」

 

 過去のご自身は、
 今もあなたの心の中で共生しています。

 にも関わらず、
 一切合切反論を許さず、断罪してはならない。

 そう申し上げているのです。

 

 過去の行為を断罪もしくは否定、
 これは「後悔」です。

 辞書には、

 後悔(こうかい)

 「してしまった事について、後から悔やむこと」

と、あります。

 一言で申し上げると、

 「バカだな、やらなきゃよかった」

 上記の文章には、主語がありません。

 むろん、
 やらなきゃよかった主人公は、過去のご自分です。

 反論を許さず、断罪するのは、現在のご自身です。

 

 つまり、

 現在のご自分が原告として
 被告の過去のご自身を

 欠席裁判の法廷で
 侮辱し、否定し、足蹴にするわけです。

 

 この行為の先に、
 過去のご自身との和解はあり得ません。
 
 

 では、どうするか。

 後悔ではなく、「反省」することです。

 

 辞書には、

 反省(はんせい)

 「普通のとらえ方や
  自分の普段の行動・あり方を振り返り、
  それでよいか考えること」

 とあります。

 一言で申し上げると、

「ははは、失敗したな。
 今度は、そこを注意してやろう」

 主語は、もちろん過去の自分です。

 ただ、完全に否定しておらず、

 過去を踏まえて
 次の策を考えようとする前向きな姿勢です。

 

 後悔と反省、
 類似語ではありますが、心の構え方、
 特に過去のご自分と向き合う姿勢は完全に違います。

 

 後悔は、過去のご自身を敵にし、

 反省は、過去のご自身を仲間とする。
 

 

 人は一人では生きていません。

 こう申し上げると、
 両親・友人・彼女や
 彼氏・伴侶・子供、取引先などなど
 様々な方々を思い浮かべます。

 

 しかしながら、
 とても大切な、

 忘れてはならない存在を
 ないがしろにしている。

 

 それは、過去のご自身です。

 

 ずっと、一緒に生きている。

 幼い頃、小学生、中学生、高校生、そして社会人。

 全ての過去のご自身は、
 今の皆さんの心の中に息づいている。
 

 それをどうか、ご理解いただきたい。

 そして、
 過去のご自身と和解してもらいたい。

 確かに、
 今の境遇に心の底から満足している方は、
 ほんの一握りでしょう。

 過去の、
 あの時に、
 違う決断をしていたら、
 もっと頑張っていたら、

 ・
 ・
 そう思う心を止めることは困難です。
 

 

 しかしながら、

 そこで、

「でも、あの時はあの時で、頑張ってたもんな。

 それに、無茶しなかったから、
 今も五体満足でいられるかもしれんし。

 大事なのは、これからだ。

 うん、これからだ!」

 

 そう、思って頂きたい。

 

 過去は、
 否定しても否定しても変えることなど、できません。

 

 ただ、行く末は違う。

 未来は、今のご自身の踏ん張りで
 いかようにも変化できる。

 その為に、
 必要なのは過去のご自身と仲良くすること。

 決して、否定し、貶めてはなりません。
 

 なぜなら、

 過去のご自身の集団母体は、
 表層意識ではなく潜在意識だから。
 
 

 私から見ると、
 表層意識は”理性”であり、潜在意識は”感情”です。

 

 未来への進路を決めるのは
 現在のご自身である表層意識ですが、

 そのエンジンとなる感情は、潜在意識です。

 

 エンジンである感情をつかさどる
 潜在意識を否定するという行為は、
 動力のない船のようなもの。

   ○風が吹けば、進むけれど、

   ○逆風になれば、後退し、

   ○嵐に遭遇すると、
    木の葉のように振り回されるだけ。

 決して、自ら進路を決定する航海にはなりません。

 

 人生と言う、長い永い航海を乗り切るには、
 後悔ではなく、反省こそ必要な心構え。

 

 どうか、過去と敵対するのはなく、
 協調していただければ幸いです。

藤 山 勇 司

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